カムシャフトの棺

他愛ない文学的な、交換日記です。

003.きみとわたしとの違いについて(mee)

お返しの便りをどうもありがとう。

 

わたしもきみも、お互い明確に人見知りだけれど、その性質はひどく違っているように思う。たとえば病院の診察を待つ間になんとなく会話が始まってしまって、よい続きの質問が思い浮かばずすこし居心地悪げになったとき、視線はなんとなく(直視ではないにしろ)あいまいに相手のほうを向いて薄く笑い、いつでも話しかけてくださってかまいませんがわたしのほうは何も思いつきません、すみません、と空気で喋る卑怯者がわたしだとすると、きみは唐突につらつらと話をしたあとで、電源がおちるようにぷつりと黙って、しかもスマートフォンを取り出してしまう気がする。続けて話す気があったとしても。

 

と、いう書きかたはきみにとってあまりに不躾なようにも思ったんですが、まあ交換日記なので勝手なことを書くのもいいのかな。きみが嫌にならないといいんですが。つまり言いたいのは、『人見知り激しい私が突然見知らぬ人に対して通せんぼとか、天地がひっくり返ってもあり得ない』について、いや、初対面の人に通せんぼ、しそうだけどな、とわたしは思うということです。そもそも二回目の人間に通せんぼできるなら一回目の人間にも通せんぼ可能なように思う。まあしかしこういうふうに自分の内面について勝手に予想されるのはいらいらするものでしょう。誰だって自分はこういう人間だという感覚があります。なので性格を勝手に押し付けることは、友人同士にしかできない無礼な行為であるように思います。(ごめんなさい。)

 

 

あとはそうだな、きみの興味・関心というやつが酷い偏在を持っているのは知っています。きみの自意識にひどく身勝手なところがあることも、利己的なところがあることも。*1 しかし、わたしの知る大抵の人間には身勝手なところと利己的なところがあるよ。きみが特別そうだとは思わない。あまりそういう部分が無いように思う唯一のひとは父親ぐらいだけど、父親だってわたしが自分の子供だからわたしの前では利己的でいなくて済み、そしてもともと多少大儀的なところがあるから娘の目からしたら公益を求めるよい人間に見えるだけで、外から見たらやっぱり利己的で身勝手な人間なのでしょう。たぶん。きみの人格についても、たしかに特別優しい人間だとは思わないが、おもしろい人間だと思うし、のびのびと自由な人だと思うし、少なくともヤなやつではない。人によっては困ったやつではあるかもしれないが、嫌な人間ではとうていないと思う。

 

その証左として、きみの話は、きみのことを知らない人に話してもなかなか評判がいいです。わたしの友人はきみの名前をだいたい知っている、というぐらい、わたしはそれなりにきみの話をしているような気がします。(というか、そもそも私には友人が数えるほどしかいないので、何でも話したくなってしまうからかもしれないけれど。)

 

また、文章についても、面白い考えをありがとう。

わたしはきみと違ってそれなりに文章にこだわっているところがあって、それは文章でないと表現できないものがあると信仰しているからです。話したことがあったのかなかったのか忘れてしまったけれど、わたしには文章でしか感じたことのない感動がある。漫画でも映画でもだめだった、小説でなくてはこれは絶対に表現できなかったはずだ、と思うものがある。中学校の教科書だったかな、「全てを表現しつくせるのは文章だけである」と、映像を扱う監督さんが言った記述があって……細かいことは忘れてしまったけれど。でも、その言葉をずっと覚えている。わたしも同じ気持ちだった。わたしの思想を書くためには、文章しかないと、一神教の教徒のように、考えているところがある。

しかし、「コスパが良い」か。たしかに、文字を打つだけでいいからね。「城」と書けば城が現れて、「草原」と書けば地面が生まれる。まるで創造主になったような気持ちでいられる。言葉を唱えるだけで世界が出来る。たしかに、ひょっとするとこれ以上ないほど簡単なのかもしれない。

 

 

あと、作品のおすすめをありがとう。

ホラーゲームはまったくやらないほうなのですが、きみが薦めてくれたものなので手を出してみようかと思います。ちょっとやってみるけど、最後までできなかったらごめん。しばらくしてもこのゲームへの言及がひとこともなければ、たぶん遊んでいないです。

 

ゲームグッズに十五万! きみのお金の使いかたはいつも豪快ですね。まあ、わたしもけっこう人から「湯水のようにお金を使う人」とみなされているほうなのですが、それにしてもなんというかきみとはやりかたが違う。十五万あれば、タヒチ行けるじゃないか!! という問題ではないけれど、まあ、わたしも一日で十五万以上ふっとばすこともありますが、おたがい節約して、よかったら今度海外旅行にでも行きましょう。あまりスケジュールを決めずに、南の島で、ずっとホテルのなかでダラダラしたりしていたいですね。

 

それと、芸能ニュースには疎くて、タッキー&翼の件知りませんでした。武井咲の結婚ニュースみたいに、なにかしらTwitterで意見が多く流れるような話題ならそれなりにキャッチできるんですが。まあ、芸能ニュースなんて仕事にも創作にも関係ないからな。とおもったけど、きみの仕事だとわりとそういうニュースの種も仕事材料になったりするのかな、と気づきました。さいきん、わたしは自分の世界というものがひどく狭くなっていることを自覚していて、学生時代の友人はほとんどみんなおなじ職についているし、おなじ会社のひとはだいたい同じようなニュースばかりFacebookでシェアするので、いまいち世界が広がりません。おなじ世界をただただひたすらもぐっていく感覚です。つまらないわけではないのだけれど。

 

 

きみの性格についての考え方も、文章についての考え方も、お金の使い方も、なにもかも微妙に違うわたしたちですが、十年ぐらい仲良くやってこられているので、今後もたのしく遊ばせてください。わたしの言葉にいらだつときも、わたしが身勝手にもきみに腹を立てるときも、いろいろあるだろうけれど、すくなくともきみはわたしの人生のなかで重要な登場人物です。欠かせないと思います。

 

 

 

さて、わたしもひとつ君に作品をオススメしよう。

「月と六ペンス」という本なんだけど、とてもよかったです。わたしがタヒチにとつぜん行きたくなったのはすべて、この本のせいです。特にこの青い本の訳がサイコーだったのでぜひ。新潮文庫だよ。タヒチに行くときプレゼントするので、タヒチで読んでください。

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

 

 

では最後に弔いをひとつ。以前書いたまま、ずっと出せていない、小説の冒頭です。。次はキス・ディオールの第三幕ぐらいから、一部分持ってきます。

 普通に好きにやっていいよという大人が嫌いだった。
 かといって、頭固めに雁字搦めに縛り付けてくる奇人が好きというわけでももちろんない。だが少なくとも「常識の範囲内でやっていいよ」なんて愚かなことをいうやつよりは数段ましだ。一番嫌いなのは、「常識の範囲内で、自由にやれ」と言われることだ。この言葉は恐ろしく強い拘束と、そして命令形で結ばれた語尾には苛烈な窮屈さを感じる。
 果たして普通とは何なのか、常識の範囲とはどこからどこのことなのか、まったく分からない。分かりたいと思ったことはないが、分からなければならなかったんだろうなとは思う。さっさと正解だけ教えてほしいのに、まるで何かすばらしい宝物をあげるとでもいう風に彼らは言うのだ「自由にやれ」と。
 勤労の自由や住居の自由や思想の自由や宗教の自由は、好きだ。愛していると言っていい。彼らのためなら人生を捧げられるかもしれない。でもそれでも、何かしらの行動に対し、それこそすべて自由にやらせておいてほしいことに対し、「さあ、呪縛から解き放たれよ。光あれ。君が好きなことをせよ。もちろん、常識の範囲内で」と気まま勝手に天啓を突きつけるのは、どういうことか。自由にやるのかどうかすら自分で決めたい。時には呪縛を選択するのもそれこそこちらの勝手なのだ。

 ――と、何やかんや理論を頭のなかで捏ね回してみたところで、君が気にした様子はない。

 そもそも、頭のなかで考えただけだから、届いてすらいないだろうけれど。

 

 

 

 参列ありがとう。

 

 

mee

*1:つまり、きみの言う「私はケチな人間だから、自分にとって得に感じることにしか興味を持たないし、大事にしないのです。」ということ