カムシャフトの棺

他愛ない文学的な、交換日記です。

007.(mee)

 

きみにあてた手紙のなかでは、直筆のものであろうとUTF-8に準拠した2バイトずつの文字列型であろうと、そのどちらでもそれなりに悪くない文章を書けていると思っている。

 

と、勝手に思っていられるのは、基本的には他人にあてた手紙を読み返すことがないからだよね。なんとなくいいものが書けた、と思わないと発送しないし、発送したあとは読み返す機会もとくにない。最高得点のまま記憶を結晶化できる。手紙って不思議だよね。たいていの文章はね、きっと最後に読むのは自分自身だと思うんだ。レポートだって、付箋に書きつけたタスクメモだって、わたしが書いている小説だって、きっと最後に読み返すのはわたし自身だと思う。それはこれらがわたし以外の人間に読まれることをそれほど想定していないからだ。レポートや報告文書は、多少他人が読むこともあるだろうけれど、やっぱり一読程度であって、何度も読み込んだり、後々必要になって読み返したりするのは、まぎれもなく自分自身でしょう。

 

 

とはいえ、なにが愛されるか、なにが”繰り返されるのか”、ということに関してはやっぱりみんなあるていど素人だと思う。素人、という言い方は正しくないのかな。なんどやっても学習し得ない、というべきかもしれない。そういうものをさす、カタカナの難しい単語がありそうだね。

 

わたしは特に、いろんなタイプの文章をあっちこっちで書くような人間だから、いい文章が書けたとしても、そしてそれを気に入ってくれた人がいたとしても、すぐにその続きを書けなかったりしていて、とても勿体ないことをしていると思う。もう少しスピード感があって、しなやかでまっすぐで推進力のある人間になりたかった。

 

 

2016年あたりはたしか痛々しい文章を書いていたんだ。女性が恋に悩んで狂うような話だよ。それが書きたかったし、それを読んでくれるひともいたし、それに意味があると信じていた。2017年はそうやっていままでに書いたものたちをまとめて公開する一年で、それなりに自信がついたこともあったし、反対にこころのなかでプルーンをひとつずつ潰していくみたいな気持ちになったこともあった。でも有意義だった。2018年は、これといった思い出がなくて、それが一番悲しいかもしれないな。

 

こないだの文学フリマで、ちょうどきみが離席していたときだけれども、とある人がわたしの小説を手に取って、こう言ったんだ。「考えがあることは分かるけれども、もうすこし整理しないと受け止める人はたいへんだ。なにを書きたいのかを決めてもうすこし整理しないと」というようなこと。最初はそのひとの目をあんまり信じていなくてね、でも少し話をしたあとで、そしてそのあと数日をかけて、その言葉がわたしの奥深くのほうにまで根を届かせて、ひょっとしたら永遠にひどい間違いをしていたんじゃないかと、そんなふうに思った。冷たい直観というよりも、生ぬるい湯たんぽがようやく熱を届かせたような速度と温度だった。

 

以前にも似たような経験をしたことがある。ちょうどmement/moriという小説を書いたときだけれども、いろんな人から、こんなものを書いてはいけないというコメントをたくさんいただいて(いま読むと、そんなふうに言われるほどの内容がある小説には一切見えないんだけど)、若いわたしはそれにしっかり反論をしたんだけど、でもとある時点でふと我にかえるみたいに――というか、いまでもどっちが「我」なのか分からないけれど、ともかく正気にもどるみたいにして、ひょっとしてわたしがすべて間違っているんじゃないか、と思ったんだな。

 

そのときとまったく同じような感覚で……わたしは自分の文章にたいしていっさい自信を失った。といってもこれは全然珍しいことでもなんでもなくて(知ってるよね)、むしろ日常的な失力なんだけれども、ただ、他人の直接的な言葉からそういうふうな気持ちを喚起させられたということは、それなりにわたしのなかでも印象深い出来事だった。

 

しかし現時点でのわたしの状態をねんのためここに記録しておくならば、いまは、わたしが完全に正しかったと信じられる。読みやすい文章を書くつもりなんてそもそもなかったじゃないか。毒薬を注ぐような小説をもともと求めていたくせに、薬ですらないものを作ろうとしていたくせに、「飲みやすさ」なんて考慮する必要はどこにもなかった。もしあるとしても、毒をオブラートに包んで飲ませるみたいに、序章だけすこし口当たりよくしておけばいいんだ。それはとても得意だし、むしろ序章しか書けないと思うこともある!(いや、プロローグ、書き出し、というものは、どちらかというと奇跡を掴んで書き残すものだと思っているんだけど、そういう流れ星ばかりキャッチしやすい時期がさいきんだったんだ。今は違う)

 

心変わりできたのはたぶん、久々に毒薬のような美しい文章を読んだからだと思う。日本語として綺麗かというとぜんぜんそんなことはないんだけど、フィリップ・K・ディックの「去年を待ちながら」を今、読んでいる。ディックのような小説は返し縫いをするみたいに反復しながら読まないといけないから、電子書籍には向いていないようにも感じるんだけど、でも通勤時間中に自由に使えるのはささやかなスペースと眼球の向きぐらいのものだから、しかたなく携帯電話の小さなモニターで読んでいる。

 

今年読んだ小説もそろそろまとめたいな。いい小説にも出会ったし、それなりの小説にも出会ったし、つまらない小説にも出会ったよ。あと、きみの偶数の記事にも出会えた。どうもありがとう。

 

 

そうだ、あと、自分が書いたような気がしない自分の文章に出会うってのも、なかなかたのしい。

いい人っていうのは、なにかを自分で終わらせることのできる人だ。

これにものすごく共感した。まあ、自分で書いた文章なので、そういうふうにおもうのはある種当然のことなんだけれど。序章じゃなくて、章の最初でもなくて、中盤の、途中の、まさに中間に使えそうな文章だ。

 

 

 

明日、そちらに帰ります。