002.タイトルというのは思いつかないものだね(尾崎末)
実は通せんぼした事自体は覚えているが、私の中ではそれがファーストコンタクトではなく、もう少し前にほんのちょっとだけ話をしたのがファーストコンタクトのつもりだったのよ。
だって人見知り激しい私が突然見知らぬ人に対して通せんぼとか、天地がひっくり返ってもあり得ないんだもの。
そんな言い訳がましい話から唐突に始まったんだけれど、めーちゃんの日記が美しすぎてどうにも上手い返信が思いつかなかったでござる。
とは言え、めーちゃんは私の人生の中で大きな影響を与えて貰った数少ない友人の一人であるわけで。
というか私が誰かに与えたほうが異常に少ない。私はケチな人間だから、自分にとって得に感じることにしか興味を持たないし、大事にしないのです。ヤな奴だね!
さて、せっかく君が参列を許してくれた葬儀なのだし、弔事を述べさせてもらうこともついでに許してもらおうかと思う。
ぶっちゃけた話をすると、私には文章の良し悪しは分からないのだ。
私にとっての文章は「好き」か「好きじゃない」しか無い。
自分が書く文章に関してもそう。私は自分の分が名文だとは思わないけれど、私は自分の書く文章が好きだ。だから加筆をしたいと思うことはあっても、修正をしたいと思ったことは無い。
そしてもっと更に言ってしまうと、私は文章そのものに比重は殆ど置いていない。
私にとって文章というのは、私の中にある物語を伝える手段でしか無いから。
だから私は文章を洗練させるということはこれまで殆どやってこなかった。
文章がだめなら絵がある、動画がある、ゲームがある、とにかく手段は沢山あるのだから、文章にこだわる必要が実は無かった。
じゃあ何で文章書くの? って話になると、「コスパが良い」という答えになる。
最小限の労力で結果を得たい怠惰な私には文章という媒体は、まさに夢のようなツールなわけです。
そんな私が、君と共に文章というものに対して語り合う場に立って良いものかどうか迷うところではあるけれど、これだけは言わせてください。
私は君の書く文章が非常に、非常に大好きです。
君が先の日記で読ませてくれた文章。私にはランプの光に照らされた書斎の赤いビロード張りの椅子で、パイプくゆらせた男性が独白している様子が浮かびました。
君の文章はいつも私の中の想像力に呼びかけてくれる。そこがとても好きだ。
これが君の求める文章とは? への返答になっていれば良いのだがね。
そうそう、ついでだから今私が恐ろしくハマっているものを君にもシェアしておこうと思う。
「Five Nights at Freddy's」と言うのだけれどね。
海外のホラーゲームなのだけれど、これがまたバックストーリーがとんでもなく濃ゆいのである。
海外の人は勿論、日本でも沢山の人が考察をしているのだけれど、これと言った正解は一切出ていない。
表面だけを見ればきぐるみが襲ってくるだけのホラーゲームなのだけれど、その後ろのストーリーは底が知れない。ある種のミステリー作品と思ってもいいと思う。私はそう言う全体像が掴めない所に魅力を感じているよ。このゲームのグッズに既に15万以上つぎ込んでしまった。ボーナスの半分以上を消し飛ばしてしまった。
でも本当に面白いから、いつか機会があれば検索してみて欲しい。
そう言えばタッキー&翼が活動休止したね。
今ニュースを見てたらそんな話題が流れてきたので、特に意味もないけど書いてみました。
おしまい。
001.はじめに(mee)
きみはいつも違うと言うが、きみに初めて会ったとき、きみは私の行く手をさえぎってとおせんぼした。覚えてる?
わたしは自己紹介はとても好きなほうで、時間さえ与えられれば永遠に話し続けることも書き続けることもできます。採用面接だってわたしの得意なフィールドでしかなく、あれほど自分を強く感じたこともなかった。きみも面接はとても強そうだから、たぶんそういう意味でわたしたちは似ているのでしょう。自己紹介が上手い。だから、というわけではありませんが、きみが初めてわたしの前に現れたときのことを、十年以上経ったいまでも鮮明に覚えている。
突然つむじ風のように現れたきみは、なかなかに破天荒で、そのあともずっとわたしの人生のなかの最も印象的な人でありつづけています。ほんとうは君とこうして便りをかわしたり、たまに贈り物をしあったり、深夜には海に車をはしらせて窓をあけて歌ったり、朝まで、眠りそうになりながらベランダで布団をかぶって話をしたり、そういう昔は当然にしていたことをもう一度したいんだけど、なかなか難しいものですね。大人になると鷹揚に遊べるようにもなりますが、どうしても動きづらくなるのが悲しい。
いろいろと洒落たことを書こうと思っていたんだけど、あまり面白いことが書けそうにないので、きみに文章をひとつ渡します。こうした文章の弔いをする先がなくて最近苦しかったところだった。
人生においてほとんど初めて、わたしには酒が必要だった。結局飲めもしないリキュールをあおり、テキーラをとり、そして結局わたしのこころを満たしたのは、文章であった。これ以上わたしを慰めるものなどありはしなかった。そうしてやがて、ひとりの自殺した男のすべてを知り、ひそやかな優越感をしこんだところで、わたしはそれなりの心持ちになった。つまり、まともに近づいたということである。わたしはふるえる手で書簡をあけた。あければたちまち煙が立ち上り、あるいは手紙が燃えてしまえばよいのにと思ったが、そんなファンタジィは起きなかった。現実はいつも現実である。虚構にはなりえず、また物語でもない。
毎回少しの便りに加えて短文の弔いをさせてください。葬式をするような文章なので、自分なりに満点のものとは言い難いんですが。どこを直せばいいんだろうなあ、と思うとき、その時点でたいていすでに失敗していて、名文というのは最初から最後まで、どこを変えてもどこを変えなくても名文なのであり、書いた瞬間に「ちがう」と思う文章は、たぶんどこをどう変質させたところで、少しもよくなるところはない。たとえマシになるような気がしたところで、それは燃えないゴミが燃えるゴミになるようなことで、結局本質が変わるわけではなく、名文が下りてくるまでは、ただ祈って待つしかないんだと思います。きみは書くことについてどう思いますか。
と、真面目に書いてしまったが、もう少し柔らかいことを喋ってもいいかもしれないな。最近読んだ本とか、好きな人の話とか、仕事の話とか。いつかタヒチの海に行ってとりとめないことを話したいものだけど、まだなかなかかないそうにないので、この場所が青い海の代わりになりますように。
一回目おわり。
mee