カムシャフトの棺

他愛ない文学的な、交換日記です。

005.(mee)

きみの分の番号をあけて――つまり004のこと――わたしはきみに、また一方的に、手紙を書きたいと思う。どうしてかきみにあてた文章だと思うと、こんな日にも多少は指が動くのです。文章を書けるような気持ちになったりもする。

 

そうだな、もしきみが、会おうといえば1時間で会えるような距離にいたとするだろ、そういう場合にわたしがきみに話していたであろうことを、代わりにこの手紙で伝えられればと思う。朝日を浴びながら毛布にくるまって話をしたり、酒ではなくてレモンティーをあおり飲んでつまみはスナック菓子だったりしたあのころの、わたしたちのくだらなくて大切な会話のことだ。またあの夏に帰りたくなってきた。こちらがもう少し寒くなったら、夏の残りを追い求めて、またそちらに向かうかもしれません。

 

さいきんの日常はほんとうにひどい。


まあ、わたしが「ひどい人生だ」とつぶやいていなかった期間などないときみならよくよく知っているだろうとは思うけれど、それにしてもひどい。「ひどい」という気持ちは変化によって喚起される。つまり、昨日よりも状況が変化することで「ひどい」は永遠に続いていく。だるくなまぬるい辛さが継続していくのなら、いつかはそれにも慣れるのかもしれないが、わたしの人生はあいにくそういう風にはなっていない。対処を思いつくと、つぎの「ひどい」がやってくる。待ち行列は見えなかったのに、たぶん、わたしの見えないところで、「ひどい」たちは一直線に並んでいるんだ。

 

さいきんよく、見知らぬ場所に行きたいと思う。わたしのやるべきことは一つもなくて、わたしができることもひとつもなくて、誰もわたしのことを知らず、いっそのこと言葉も通じない、だれもわたしを愛していない世界。たぶん寂しいとは思うけれど、いろいろなことがぐっと楽になるだろう。むかしはベッドのなかの毛布にくるまっているときですら「帰りたい」と思っていたけれど、いまはどちらかというと、故郷でもふるさとでも見慣れた職場でもなんでもないところに行って、情報量のすくない世界で過ごしたい。

 

少しだけ気持ちが上向いて、創作したいという気持ちになってきたので、これから書くことのなかには嘘がはいるかもしれない。

 

毎日、いろんなことに手間がかかる。自分の仕事、同僚の仕事、下請けのフォローや自分で自分の機嫌をとれない人への対処。すぐ泣きそうになるような地雷を、うまく避けて歩かなくてはならない。

 

いい人っていうのは、なにかを自分で終わらせることのできる人だ。つまり有能な人のことなんだ。そんなふうにおもうことがある。

 

今回も弔いをしよう。キス・ディオール第3幕より。

 ……ふと、思いついた。
「すみません、少し考えたんですけど。この相談所、魔術の分析というよりも、『金術練成の改善』とかで開いたほうがいいんじゃないでしょうか?」
「ほう? 君に金術の心得があるとは知らなかったな。それとも興味があるのかい?」
「あ、いえ、心得も、これといった興味もないんですが」
 説明がしづらくて、一度手元のコーヒーカップに目線を落とす。なんと言えばいいだろう?
「その、分析士、っていう言葉自体、あまり世界に伝わってないじゃないですか。だから、もう少し身近なもので例えてあげないと分からないんじゃないかなって。パンが上手く焼けるとか、自分がいつもやっている仕事が少し改善されるとなれば、価値を感じていただけるんじゃないでしょうか」
 ふむ。
 ふむ、ふむ、ふむ。
 と、キス・ディオールは四度、頷いた。
「なるほどね――言いたいことは分かったよ。だがそれならこう書いておけばいいんじゃないのかい?」
 キスは空中に杖を揺らし、光の痕跡で文字を描いた。彼はこういうかっこつけたことが好きだ。
 ――分析士・キス・ディオールの相談所。金術練成の改善から、パンの焼き方、家事効率化までなんでもござれ。
「うーん……いや、これでもいいんですけど、なんとなく、もう『金術練成の改善所』です、と言ってしまったほうがいい気がするんです」
「ほう。何故かね」
「分かりやすいからです」
 そう、分かりやすい。
 分析の持つ力を説明する必要がない。
「……ふむ。あえてここで君に言い訳をするならば……君の言いたいことは、ある程度分かっているつもりだ。しかしね、世界中の人を愛していると言う人から向けられる個別の愛よりも、世界中の誰にも興味はないけれど君だけは好きだと言う人の愛のほうが、信じやすいものだとは思わないかね?」
「どちらも言われたことがありません」
「では、今言おう。僕は世界中の誰にも興味はないけれど――」
「結構です」
 他人の台詞の途中に口を挟むのは信条に反するところもあったけれど、とても続きを聞いていられなかった。
 そうやっていつも女性を口説いているんですか、と聞きたくなったけれど、さすがに意地悪過ぎる。やめよう。
「わかったよ。例えるのはやめて、誠実に話そうか」
 キスは多少くたびれたみたいに、首をすこしだけかたむけて、わらってみせた。大人のようだとストアは思った。
「新しい概念を布教するというのは、もちろん簡単なことじゃないのだよ。それに、金がもらえればなんでもいいというのなら、我々はそれこそ畑を耕していればいいのさ。この国の最大の産業は農業だし、この塩にも干ばつにも侵されない素晴らしい豊かな農地は明らかに我が国の強みだ。――では何故、我々は魔術なんてやっているのかね?」
 ストアは考える。
 こういうとき、全く口を挟まないキスの性質はありがたかった。どれだけゆっくり考えていても、彼は待ってくれる。大人のように。
「団体の志向でいくと……たぶん、国としては強みをいくつか持ちたくて……あと、工房単位で言うならば、ただ、そうしたいからだと思います。僕個人の考えでいいなら、才能があると言われたから、です」
 では、才能があると言われたからといってどうしてそれをやるのだ? と聞かれるような気がして、その答弁を考える。上手く出てこないが、当然だ。これは今、ストアが心底悩んでいる議題に他ならない。
 だが、キスは違う質問をした。
「ああ、そうだ、そうだ。君は正しい。君個人の考えのほうのことだよ。君は才能があると言われたからそうした。ある子は魔術士にただなりたくてそうした。夢のようなものだ――私もそうだ、才能があるといわれて、そして分析士になりたくて、そうした」
「……はい、僕も、最終的にはなりたくてそうしました」
「そうだろう。君たち――いや、あえて、僕たち、と言おうか――僕たち魔術の試問に挑むものは、その門戸を叩くものは、多かれ少なかれ決断したものたちなのだ。それも生まれてから十年そこらでの決断が必要だ。よほど本人に強い意志がなければ誘われない、これこそ魔法の庭だ。我々は夢を、実は抱いている。外の人のほうが、魔術士に強い夢を抱いているからこそ、たまに忘れてしまいそうになるけれど、僕たちは実は夢を持っているのだよ。魔法を操りたい、という馬鹿みたいな夢だ。士業と呼ばれたいだけなら職業は他にもある。お金が欲しいだけなら農地を耕すほうがいい。それでも我々は魔術士を目指す――そうなりたいからだ」
 驚いた。
「だから我々は、魔術の資格を持っている、素養がある、気脈に愛されている、というような資質以前に――そもそも決断する人間なのだよ。我々だけではない、いわゆる工房と呼ばれるようなものに飛び込む人間は皆そうだ。後悔しようのない若さの中で、後悔するはずのない世界に挑む。勿論、時には途中で退陣するものもいるがね。だが、僕の出会った人間は皆こう言うよ――何度あの日に戻っても、必ずまた工房に入る、と」
 キスも、そうなのだろうか。
 彼も、もし何年か前、あの農地に何度戻れても、必ず魔術の門を叩くのか。
 では、ストアはどうだろう?
 あの夏に、何度戻れても、同じ決断をするだろうか。
 ――するだろうな、と思う。
 何度でも、と強い言い方はできないが、少なくとも今、もしあの日に戻っても、ストアは同じことをする。幼い頃から感じていた不思議を両親に告白し、誘われるがままに師匠のもとへ、キスのもとへ、また来る。
 決意というほど強いものでもないが、なんとなくそうするだろう、とは感じた。強い感情ではないにしても、こう思えることは幸せなことだ。僕はいま、自身の歴史に強い納得を抱いているということなのだから。
 自分の人生を変えたいと願う人間は、多く存在する。相談所を始めてから知ったことの一つだ。
「だから、もう一度君に聞こう。金が欲しければ農家に戻ればいい、士業の号が欲しいなら学舎に入ればいい――では君は、どうしていま僕とここにいるのか?」
 しっかり考えて答えを出そうと思うのに、何故かすぐに答えたかった。この質問には、即答したい。
「多分、そうしたいからです」
 即答の割には曖昧な答えだ。
 キスは笑う。
「君らしくないやり方だな、ストア。でも褒めたくならない答弁のほうが、君の本当の気持ちが詰まっているような気がするのはどうしてだろうね」
 キス・ディオールは微笑んで、何故か窓の外を見た。それが彼が時たま取る、話が終わった合図だった。

 

奇数をわたしが使うので、もしも気が向いたら、あいている偶数のほうをお好きに使ってください。